兄弟・姉妹と呼び合う宗教組織に所属していた頃

【 兄弟・姉妹と呼び合う宗教組織 】

キリスト教系の 多宗派で バプテスマー洗礼を受けるまでお話を聞いたことがないので、他の宗教組織のお互いの呼称については よく知らないのですが、エホバの証人

名字の後に 男性なら“兄弟”・女性なら“姉妹”と呼称をつけて呼び合います。

男性の 田中さんなら 「田中兄弟」、女性なら「田中姉妹」、田中家の子どもで 光輝君なら「光輝兄弟」、恵ちゃんなら「恵姉妹」という感じです。(ただし 伝道者というバプテスマを受ける前の段階にまで信仰の面で成長していることが、この 呼称をつけていい条件ですが。)

そして エホバの証人のこの呼び方の“すごい”所は、会衆の活動の場ではもちろんですが、家庭の中で家族だけの場合でも 兄弟・姉妹をつけて呼び合うことが望ましいとされていることです。若い人同士で ニックネームをつけて呼び合うのが少し流行った頃に、集会のプログラムで 「兄弟・姉妹に勝るニックネームは無いので、ニックネームより兄弟・姉妹を使いましょう。」という内容の注意がなされたこともあります。

組織の役割として 世界本部や各国の支部には長老と呼ばれる信仰を代表する人達だったり、各会衆を見回り支部に状況を報告する巡回監督だったりが いらっしゃいますが、その方たちにも呼び掛ける時は、「~~兄弟」と言います。「~~監督」・「~~長老」とは呼びません。これは、人類がアダムとエバの子どもであることと、すべての人が 肩を並べて神に仕える同労者であることを表すからだと教えられます。

 

自分が熱心に活動している時は エホバの証人の様々なシステムについて 特に違和感や戸惑いは感じていなかったのですが、少し距離を置いてみると、正直うまく心理操作されているなと思います。

決して 同労者ではありません。各会衆の中では、長老の意見は絶対ですし 異論を唱える信者がいたとしても 年長者の意見が大抵通ります。年長者とは、実際の年齢の意味も含みますが、長老に任命されてからの年数で判断されます。また、エホバの証人の世界でも 親の七光りは通用します。親が長老で会衆の代表者(調整者と呼びます。昔は主催監督と呼ばれていました。)をしている、母親は開拓者(奉仕活動をたくさんしている人に与えられる特権の呼び名です。)をしていると、その子どもは 早くに 会衆での様々な特権を与えられますし、信用もされます。信仰だけで判断される(信仰は目には見えないので 信仰で判断して様々な特権を任命していますと言われても それは活動の量や集会での様子で測っていると推測するしかありません。以前はこれを 聖霊で任命していると説明していましたが、明らかに同じ行動をしていても 任命に偏りが見えているので 今は 推薦されたと説明されています。)のではなく、背景が加味されて 会衆内での 地位が形作られます。

エホバの証人が日本で劇的に増加したのが、第二次世界大戦後 国内情勢も経済も落ち着いて 高度経済成長の時期から 1980年代までと 聞いたことがあります。(私の研究を司会してくれた姉妹の感じたことなので 数字で確認はしていませんが。)

その頃は 主婦がまだ 結婚したら家事・育児のために 外での仕事を持たず 家庭にいた時代でした。昼間家にいた奥さんに 奉仕に来たクリスチャンが、「聖書を勉強しませんか。聖書は子育てに役立ちますよ。費用は全く掛かりません。無料です。」と勧めます。もちろん クリスチャンの側も女性ですし、親切そうな普通の主婦が きちんとした服装できれいな言葉で優しく話しかけるので、すっかり安心してしまいます。(もちろん エホバの証人側も取り繕っているわけではありません。中には、奉仕の時だけきちんとしている人もいるかも知れませんが、私自身 敬語を使うことや 他者に礼儀正しく親切で愛を表す生き方は、大好きでしたし 今もーエホバの証人を離れた今でもーこれからもずっと、他者を重んじる生き方を続けたいと思っています。結局何を学んでも 動機が大切で 心からそうなりたいと願わなければ 人はそう簡単に変われないと思います。エホバの証人は よく 神様のご意思なら聖霊ー神様の力ーが与えられて 神様の望まれるように変化できると言いますが、結局は それを強く望むかどうか 自分にかかってくると思います。私は エホバの証人を長く続けていて 会衆内で恵まれた地位、立場を得ている信者さんほど 性格悪いなあと感じることが度々ありました。★11)

 ともかく まだ昼間に妻が家に居ることが多かった時代に、妻がエホバの証人の訪問を受け先に聖書を学びます。そして やがて 集会に行きたいと夫にお願いするようになり、夫はそこで始めて妻が聖書を学んでいること、クリスチャンになりたいと願っている事を知り、慌てます。それは、それは、慌てます。エホバの証人一神教で 仏教を形式的にであれ 信奉しつつ エホバの証人であることは 容認されないからです。たいていのご主人は、エホバの証人の教理の内容を知れば知るほど大反対するのですが、ここで一悶着も二悶着もありながら、

❤ 夫をクリスチャンに導いた女性信者は

 ー夫がその後 長老になるまで信仰の面で成長した場合ー

   女性信者の中で 会衆内ヒエラルキー1位

 ー夫はクリスチャンになったが 長老になるまでは進歩していない場合ー

   女性信者の中で 会衆内ヒエラルキー3位

 ❤ 夫をクリスチャンに導けなかった女性信者は

 ー夫の反対を耐え忍びながら開拓者という奉仕の特権を与えられるまで沢山奉仕した   場合

   女性信者の中で 会衆内ヒエラルキー2位

 ー夫の反対にめげそうになりながらもほそぼそ 続けている、

  子どもはクリスチャンに育てられなかった場合ー

   女性信者の中で 会衆内ヒエラルキー4位

という会衆内での評価を得ます。

そして、その昔 先に家庭に居る妻が 先に聖書を学ぶので、当然 男性の信者数は少なかったのです。今は ネットでも 聖書研究を紹介していますし、コロナ禍以前は 大都市の駅前で聖書のボランティアも行っていたので 男性ー夫から学ぶというパターンも無くは無いです。しかし、以前は本当にどこの会衆においても 男性ー兄弟は少なかったのです。

その頃の事は、“ネクタイをしていたら誰でも長老になれた”と揶揄される時代だったのです。反対に 今は男性信者にそれ程不足していませんから 男性の信者もほどほどいる都会の会衆では なかなか長老や援助奉仕者(長老に次ぐ奉仕の立場の事です。長老と同じくプログラムを扱ったり祈ったりします。)にはなれません。

つまり 昔 男性だったら すぐ 長老の任命が来た。妻から 聖書を渡されしぶしぶ聖書研究に同意したら 来たクリスチャンにともかく 褒められる。何をしても感謝される。そうして 大して苦労もせず 聖書の勉強もせず ただ司会者と妻に押し切られただけ(あっごめんなさい。真理を求めていたのか 妻への愛かもしれませんが…)で クリスチャンになった男性信者がーエホバの証人の制度として、女性信者は演壇から聖書の講話をしたり 祈ってはいけない という決まり事ゆえにー簡単に長老になって 長年長老として 会衆内で 用いられてきたのです。自分の見方が 正しいと勘違いしていくことも あるでしょう。だって 聖書研究を始めた時から ずっと 褒められっぱなしですし、クリスチャンになってからも 事あるごとに「~~兄弟が こう言われました。」とか 「~~兄弟の言われた通りにしましょう。」と 持ち上げられるのですもん。

さて そんな長老兄弟が、自分の目から見て 何となく肌が合わないとか 自分に敬意を払わないとか 感謝が足りないと 感じる クリスチャンの仲間が居たとします。

何も 問題が無い時は いいのですが、何か問題が生じた時に 自分の身内や自分に敬意を払ってくれるクリスチャン家族には 処罰を手控えて 気に入らない家族には厳しい処罰をする というのが、至る所で 見られるのが、現在のエホバの証人の会衆でしょう。

幾つかの例は 後日 上げたいと思いますが、敬意を払うという“敬意”は、 言葉使いや態度では無くて 物を持ってくるかどうかで長老に敬意を払っているか判断されているという点も 私はとても 残念なことだと思っています。 

そして もう一つ エホバの証人が 会衆内で 何か問題を起こしたとされるときは

聖書では 二人か三人の証人が必要と書かれていますし、エホバの証人の組織の本にもそうはっきりと明記されていますが、それは 長老以外の成員が 他の成員を訴える時に 必要な証人の数です。そういう場合でも 長老が 「大丈夫です。」と 一言いえば もう問題にはしてもらえません。

では 長年長老をしてきた兄弟が ある姉妹ーA姉妹と仮定してーその子どもに問題があると長老が感じたらどうでしょうか。ここで必要なのは、A姉妹にその様子を尋ねることだと思うのですが、この長老が A姉妹のことを以前から肌が合わないと感じていた場合、まず 自分からA姉妹に近づくことはありません。もちろん 子どもに近づくこともしません。長老は 会衆の成員の霊的な様子に気遣いを示す牧羊(ー★13)をしなさいって いつも 集会のプログラムで言われているのにね。その長老兄弟は すぐに 長老の集まりで A姉妹の子どもに問題があるので A姉妹から特権をはく奪した方がいいのではないか、と提案します。

長老の集まりを 長老団と呼びますが、ここで一番大切にされるのは 長老団の一致です。誰か一人が意見を述べた場合 その兄弟が 年長であれば有るほど その意見には意義を唱えてはならず、例え意義を唱えたとしても 「いや、でもあの子はこうなのです。」など 重ねて意見を述べられたら 賛同せざるを得ないのです。

かくして その可哀そうなA姉妹とそのお子さんは 何のことかわからないまま、姉妹は特権をはく奪されることになります。

一度も 事実確認されない “幽霊裁判”が エホバの組織では 普通の事です。

その後 訴える手順も残されてはいます。一応 上訴することができるそうです。しかし、この手段を使う信者はほとんどいません。なぜなら、訴えて そのことについて再度本部から相応しい処置だったのか質問が来ても、その質問に答えるのは そのA姉妹を断罪したその“長老”本人ですから。

 会衆ヒエラルキーの上位組は、自分達は “神の祝福を受けて霊的に繁栄している”

ので、“自分の見解は常に正しい”のだ、思っているのです。

聖書に “真理はあなた達を自由にするでしょう。”という言葉があります。聖書の伝導活動に行くと、聖書のこの箇所を見せて、「この自由とは、間違った教えからの自由、間違った伝統からの自由です。」と説明しますが、 エホバの組織に、自由はありません。